美人ブログ

お待たせいたしました、美人でございます。

できない約束なら、そんなものは大っぴらに言うもんでもない

 

すぐに触ってはすぐに飽きるし、また先に進みたい。時折戻ってきては、またやったり、でも、なんだって、一旦は全力でぶつかりたいと思っている。まあ、腰を落ち着けて懇々とやる人や、ズンズンと掘る人のほうに憧れがあり、そういうのは格好がいい。

 

三浦しをんの小説、『舟を編む』に出てくる、辞書編纂に携わる馬締くんはとてもセクシーだ。一方で、社交的な西岡くんは、辞書編纂に携わる部署から、途中で広告宣伝部に移動になる。当初は辞書編纂という仕事の地味さに興味はなかったのだが、言葉を担う仕事の大きさを肌で感じ、携わる人々の真摯さを目の当たりにして、次第に魅力に取り憑かれていく。しかし、そんな矢先志半ばでの部署移動となる。悔しさも抱えつつ、辞書編纂部は発行までに7年もの歳月を要する。出版が決まった際、その広報に総力を上げるのが、西岡くんなのである。ま、私はどちらかといえば馬締くんより西岡くんタイプだわな。

 

ただ、馬締と西岡、彼らの間に存在するのは、向かう方向や得意不得意なことは違えど、魂と行動における馬力がある程度同じである、ということだ。その上、誇りや美徳まで、共に崇高なのが尚のこといい。要は、プライド、である。

 

「困った時は助け合い!誰一人取り残さないの!」が口癖であった私は、それが機能するのは、少なくとも自分と近しい馬力を持った人の範囲なのだと最近思った。

 

映画『トップガン・マーヴェリック』のテーマの一つで「チームみんなで生還」といった内容が出てくるが、あれは少なくともトップガンに選ばれた人たちの話である。そもそも飛行機に乗れない人とか、ただ憧れてるだけの人は連れて行けない。壮年のトムクルーズは、ピンチの時に亡き親友の息子が迎えに来るが、ドルオタの限界おじさんとかは置いていかれる。

 

麦わらの一味に入りたそうな人たちを、波止場につくたびに全員載せていたら、メリー号はあっという間に沈没してしまう。

 

ただチヤホヤされたいからって、文化祭のステージ上がっていきなりチアリーディングしたところで、憧れだけで中途半端にやってたら、人が落ちて死んだり、怪我したり、障害も残るかもしれない。

 

前回のブログからの引き続きではあるんだけど、私、自分が思ったより人をケアしきれないことに辛さを感じている。自分は大学院時代の研究で「責任の所在より、関係性を前提にした社会の見方があるはず」とのたもうたのだが、結局、関係性もまた責任を伴うものであり、責任感と関係性を共にガチでやろうとするのは、ヤクザみたいなものである。「は?仁義切れよ。」と基本的に思ってる。

 

大学の文化祭でファッションショーに携わっていた頃、同期のデザイナーが本番直前に失踪して衣装が足りなくなったことがあった。その時、運営側だった舞台統括の先輩が、イベント全体の準備だけではなく、他のデザイナーに教えてもらいながら、全くの未経験から、衣装を縫い上げて、穴を埋めたのを見た。そういう人たち。そういう人たちと一緒にいるのが当たり前だった。ちなみにその時の統括は今も服に関する仕事をしているし、服作りを教えてた彼女は今プロになっている。

 

誇りと馬力とエネルギーが同じ人たちから、ケアを注がないと、わたしが方々からエネルギーを吸い取られて、引きちぎれてしまう、と思うのだった。囚人のジレンマの問題には、裏切りと協力だけではなく、協力のエネルギー値が違うため結果片方が損するというパターンは存在するのではないだろうか。

 

知性はもちろんのこと、同じレベルの馬力を誓ってくれる人とじゃないと、一緒にいても、つまんない。

 

会話は自己を発見する手段だから同じくらいのOSの入ってる人と話していないと自分の形がわからないし、相手に嫉妬されたり足を引っ張られない、さらには自分を良い方向にエンパワメントしてもらうには、実力と、プライドが同じくらいの人たちと一緒にいなきゃいけない。

 

「みんなでご飯を食べられるって最高。」

「誰一人取り残さないの」

 

なんて、大仰に言わなければ良かった。結局のところ、わたし個人の範囲では、果たせない約束なのだ。それなら、包摂できないものを傷つけるので、言わん方がいい。なるべく自分と話してて面白くない会話の噛み合わない人との時間は減らしたい。26といえど、人生の時間限られてるから。極上の食卓の準備をして、極上の人にしか伝わらないようなコードでやったら、わたしはそれが幸せ。

 

村人総出の芋煮会より、新じゃがの皮をきれいにむいて、小さな鍋でゆっくり肉じゃがを煮込みたい。

小鍋の範囲でしか、1人でできることなんてない。肉じゃがには日本酒が合うだろうか。わたしはそういうのが好きだ。

 

好きなものをやれ、と言われて凝り始めれば、途端に、エリート志向で、ハイソ志向で、センス志向で、性格悪い自分が顔を出す。気がつきたくなかった。でも、私の一生だって限られてるのだから、私の好きに使っていいよねって思うのだ。自分が、極上のものを求めていることや、取り残したくないことや、愛を大事にしていることは、与えられる人の数にも限度があるのだから大きな声で言うもんじゃない。与えられる側もそれがいいのかわからんし。結局はほんと、愛なんてエゴで恣意的で、不平等で、いいもんでもないですよね。だから、秘密にしておかなければいけない。本当に大事なものは秘密の場所にあるのかもしれない。ま、ここも、そんなもののひとつ。