美人ブログ

お待たせいたしました、美人でございます。

幼稚園の時好きだった男の子と、季節の果物の話

 

カネコアヤノの『季節の果物』という曲をもう半年ほどよく聴いている。

 

季節の果物

季節の果物

 

 

優しくいたい

海にはなりたくない

全てへ捧ぐ愛はない

あなたと季節の果物分け合う愛から

 

カネコアヤノ『季節の果物』

 

カネコアヤノのせいにして、私は赦されようとしていることがある。愛情は有限で、身体も物体もそこにあるだけしかなくて、果物を分けられるぐらいの範囲でしか愛をやれないかもしれない。

 

「全てへ捧ぐ愛はない」「全てへ捧ぐ愛はない」とただ、繰り返しながら、自分の気持ちを落ち着ける時がある。

 

幼稚園の頃幼なじみの好きだった男の子にバレンタインにチョコをあげようとしたら、もう1人同じグループの男の子にも同じチョコをあげなさい、とママに言われて、めちゃくちゃ揉めたことがあった。

 

これは私から彼にだから、私はそれを別の子に渡したくない。それはママからそのお友達にってことにしておいて欲しい。と言ったらママが困った。今ならわかるのだ。ママ友付き合いだって大変だよな。義理チョコなんて感覚は、園児はな持ってないんだ。激烈な本命以外、園児の脳にはなかった。他は、ノイズである。知らん。

 

偏愛。偏愛である。偏愛をするから人間は人間らしいのかもしれない。

 

なんというか、あまりに理由がなく不平等なことはあるよな。努力で解決できないことばかり。

 

偏愛といえばその幼稚園の頃好きだった男の子は、かなり、偏愛が強い子どもだった。『となりのトトロ』で、メイを探してサツキが遠くまで歩くシーンがある。そこで出会った男女カップルに「まつごぉ!?!?」(地名)と言われるのだが、彼はなぜかそれがお気に入りなようで、よく「まつごぉ!?!?」と言っていた。

 

ちなみにいちばん好きなジブリアニメは『平成たぬき合戦ぽんぽこ』と(偏愛だよな)、園児にしては渋いセレクトだったが。今になって思えば彼もかなりたぬき側の人間であったのかもしれない。

 

ラーメンに氷を入れて食べるので、「なんてクールなんだろう!」と思って真似しようとしたら、彼の母親に「美人ちゃん!違うの!うちの子がおかしいの!真似しちゃダメよ!」と言われたり、当時発売したての野菜生活のゼリー飲料を教えてくれて、めちゃくちゃ勢いよくチューって吸って上唇の方にずらすとひっつくんだよ! と、上唇にぶら下がったゼリー飲料を見せてくれた。私たちはセブンイレブンの前で園児2人でなぜか上唇に野菜生活のゼリーをひっつけていた。

 

スイミングスクールの帰りになんか大人っぽいパッケージのウィダーインゼリーを買ってもいいと教えてくれたのも、風邪の時以外にC-1000を飲んでいいと教えてくれたのも、かき氷のブルーハワイを教えてくれたのも彼。ポケモンパンのデコキャラシールを初めてくれたのも彼である。

 

男の子だったけどおジャ魔女どれみが好きで、彼の家の引き出しのいちばん上には、おジャ魔女のコンパクトとかステッキでいっぱいだった。私はやっぱり早い段階で人目が気になる感じとか、男の子の正解とか女の子の正解とか気になっちゃうタイプだったから、「美人ちゃん!きらっきらできれいよぉ〜」と言ってキラキラのおもちゃを見せてくれた彼(5歳)のことを「すごい!男の子らしさに囚われていない!」と私(5歳)は思っていた。

 

彼が一軒家に引っ越したとき「僕の家はお風呂にテレビがあった、後、坂の途中にあるんだ!!!!」と言っていたことをよく思い出す。お風呂のテレビはすごい!と思ったけど、家が坂の途中だと、何がいいんだろうか?日当たりだろうか?と思ったりして、結局何が良いのかは聞けずじまいだったが、私はいまだに坂の途中の家へのリスペクトが強い。

 

単に一緒に過ごした時間が長かっただけかもだけど…私は彼について書けることがまだまだある。でも、その母に義理チョコを渡せと言われた男の子の記憶は何一つないのだ。何一つない。

 

熱烈な愛情とか特別な魅力がとか、お金があるないとかではなくて、記憶の中に残る度合い、ただそれだけでもこんなに差が出る。それはたまたま同じ時間を過ごしたとか、たまたま面白かったとか、で。

 

やっぱり、それは同じチョコではないんだよ、と思う。差がある、だけではなくて、多分義理チョコをもうひとつ渡すエネルギーと意識の差があるなら私は「まつごぉ!?!」の方に1義理チョコ分上乗せしたい。だって面白い。記憶に残らない人と、私に初めてポケモンのデコキャラシールをくれた人間、どちらを大事にした方がいいかは明らかである。

 

あと、バレンタインのお返しに、六花亭のホワイトチョコがけ苺をもらったのも嬉しかった。父が出張帰りに買ってくるお気に入りだったけど、「あ!おんなじのくれた!私の好きなやつ!」と、思って、とっても嬉しかった。それ以来六花亭のホワイトチョコはずっと好きだし、あと、ミッキーとミニーの絵が描いてる白い缶に入ったお菓子がお礼だった年もある。多分その缶、おもちゃの小物入れる箱でずっと使ってた。

 

これたぶん、別に彼そのものというより、彼のお母さんが、まだ娘さんがいなかったから私にしてくれるの楽しかったんだろうなって感じなんだよね。その後妹さんできたしバレエ習わせたりとかしてたもんな。私はそのお母さんから最初の頃はふわふわのレースカーテンで作ったドレスとかももらってた。あれ、子供向けのおもちゃのドレスよりすごく大人っぽくて、パニエが入って素敵だったすごくお気に入りだった。

 

そのお母さんからドレスを作ってもらったこと、彼の引き出しがおジャ魔女どれみでいっぱいだったこと、六花亭のホワイトチョコ。どう考えても私の人格形成に色濃い影響を及ぼしている。15年会ってないのでそれ以降のことはよく知らない。相変わらず、たぬきみたいな友達ばかりであるが。

 

私、やっぱり、記憶に残らない人にチョコあげるエネルギーを、割きたくない。多分今の私がみんなにチョコあげなきゃって思うのは人一倍偏愛だからだと思う。偏愛性のヤバさに気がついているから、是正しようとする力が働くんだと思う。偏愛が獣すぎるから、博愛の化粧が人一倍必要だと分かっている。強烈な偏愛と強烈な博愛の狭間で、私はどうしたらいいかがわからない。

 

彼がお引っ越しした時も、家が近所になった女の子にセーラームーンのネックレスを彼のお母さんがあげたら、他の園児に「私はもらってない!欲しい!」と言われてその子には、なんか安めの適当なのを買って、プレゼントすることになって…と母同士が話しているのを聴いてた。

 

「ってなると、やっぱり美人ちゃんにもあげてないのはおかしいじゃない?」

 

っと言ってなーんもしてないのに私の元にはピカピカの、その家の隣の女の子と同じ等級くらいのセーラームーンのコンパクトネックレスが授与された。「わがまま言わんといいことあるな〜♪♪」と思ってめちゃくちゃつけていた。これもまた義理ネックレスなのかもしれないが、欲してないのに手に入るのだから私はラッキーガールである。というかむしろ、義理ネックレスを配った結果、「この子にあげてないのは不当では?」となり、本命ランクのものが回って来たのである。そう。「欲しい」と言ったって、そのランクは崩せないのである。

 

ていうかこれ、普通に「人付き合い」の話なんだよな。贈与と返礼のリズムがめちゃ合ってたんだよ。園児とかではなくて親同士の。あと園児同士の個性。彼の話まだ面白いのあるから書きたい。

 

今の私はどんな感じかというと、義理チョコが行き渡っているかの方が気になっていて、私が何に、どこに、誰に、どれだけ絞りたいのかが分からなかなっている。

 

この前、年上の女性が「あれよ!優しさはね!『みんなプラン』みたいなのがあって、その先は席数決めておきなさい!」とクラフトビールやで宣うてたが、事あるごとに『みんなプラン』を思い出す。その人は「この人は何があっても大事」と(それはそう)、「馬鹿だけどかわいい!ほっておけないは2席までよ!あんた!わかってる!?美人ちゃん!?!?」と言っていた。定期的に…思い出す…。

 

幼稚園の時に好きだった子の話はウケるので、よく人と話す。「まつごぉ!?!」って言ってたわ〜と、話す。20年近く経っても、話す。好きとか嫌いとかを超えて、存在する。多分私がおジャ魔女に興味があるのは、彼が好きだったからだと思う、意識してるわけではないけど、ひきだしいっぱいの、おジャ魔女のおもちゃだけが映像として出てくる それは別に強烈な見返りを求める愛とかではなく、記憶の総量で…。意識的にしろ無意識的にしろ私は何かを忘却している。選ぼうとしなくても、残っている。だからやっぱり許されるなら、義理チョコなんてやめて、思い出せる人、思い出せるものだけに上乗せをしていいんじゃないだろうか。それは利他ではなくて利己的行為。

 

思い出すだけで顔が綻んでしまうような記憶をくれる人って、もう頭の中に座ってるんだよもう15年近く会ってないしSNSでも繋がっていないけど、私の脳内の席に座っている。だから愛の蛇口を閉めたかった、義理チョコを渡したくない。そして、果物を季節という限りがある果物を、分けられる人なんて、席数分しかなくて、苦しいが人間なので仕方ないと思う。

 

幼稚園の時に遠足でその男の子たちと行ったとしまえんはもう閉まった。ハリポタランドになっても、記憶だけがある。

 

 

全てへ捧ぐ愛なんて、ないな。

自分が守れるコートの広さがわからない、迷うことばかり。